堀辰雄

夏になつた。路易は或る温泉湯へ娘を誘つて見た。娘は、承諾した。が、もう一人ほかに彼女の仲のいい娘を一しよに連れて行くといふ條件づきで。 その小さな旅行中、路易はさういふ娘の意地惡に對する復讐をひそかに考へてゐた。温泉場に着くと、娘はひとりで妙にはしやいでゐた。或る溪流のほとりを三人で歩いてゐた時など、娘はひとりでずんずん徑もないやうなところを分けていつて其處にきらきらしてゐる水を手で掬ひたがつた。しまひには生ひ茂つた草や木の葉が娘の姿を全く見えなくさせた。あんまりいつまでも見えなかつたので路易は崖の上から大きな聲で娘の名前を呼んだ。返事がなかつた。路易が氣づかはしさうに下の方をのぞきこんでゐると、連れの娘も一しよにそれを見ようとして、その顏をぐつと彼の顏に近づけた。その頬が匂つた。すると路易は夢中にその娘の肩へ手をかけながら、荒あらしくそれを引きよせて頬ずりをした。 間もなく徑もないやうなところから生ひ茂つた草を分けて娘が上つてきた。その顏が眞蒼であつた。ひどく呼吸を切らせてゐるらしかつた。さうして二人のそばにあつたベンチのところまで來ると、その上へよろめくやうになつて倒れた。 路易があわてて近づいて行つて見ると、 「何でもないわ……」と娘は言ひながら目を閉ぢた。 歸りの汽車の中で三人はぎごちなく沈默してゐた。 路易はまださつきの味のない接吻のことを考へてゐるらしく、「なんだ接吻なんてあんなものか」と言はんばかりの顏をしてゐる。それが接吻した相手を自分がちつとも愛してなんぞゐなかつたためであるとは知らずに。さうして路易は自分のこれまでにした唯一の接吻、地震のごたくさまぎれに小さなみすぼらしい娘にしてやつた、あの後味の大へん苦かつた接吻のことなんどを思ひ出すともなく思ひ出してゐた……。